MMM応援記事 #1− 橋口静思さん

0. はじめに

みなとメディアミュージアムは地域と作家、実行委員が連携して展示をつくりあげていきます。年度毎に実行委員や作家は異なるので、毎年様々な作品が生まれていきます。
今回はMMMに参加することで得るものについて書いていこうと思います。

みなさんは様々な理由を持ってMMMに興味を持ったと思います。その多くは現代アートが好き、那珂湊が好き、地域活性化が好きという理由が多いでしょう。どんな気持ちを持って参加することもいいと思います。むしろ多様な興味や考えが交わることで新しいことができるはずです。

しかし、現代アートの作品と聞いて、アートってよくわからない、なんとなく敷居が高い、自分には関係ないと思ってしまう人もいることも知っています。
現代アートに興味があまりない人でもMMMの活動を通じてアートが好きになってきた実行委員も多くいます。それはある一つのことを意識すると変わってくるものです。
なかなかその一歩を踏み出せない人や、何をしたらいいかわからないという人のためにも内容が伝わればいいなと思っています。

さて、アートが好き/苦手に関係なくMMMに参加する人にぜひやってもらいたいことは「観る」ということです。
現代において見るという行為はほとんどの人が常にやっていることです。テレビだけでなく、スマホやPC、街中のデジタルサイネージなど常に動画や多くの情報が飛び交っているのはよくご存知だと思います。
ただ、情報があまりにも溢れていて、それを処理するだけでも精一杯になってしまうこともあります。それほどに普段は意識をしてなにかを見るということはあまりないと思います。漫然と視界に入ることを「見る」とすれば、みなさんにやって欲しいのは、しっかり眼で捉えて、意識をして「観る」ことです。じっくり「観て」参加してみると新しい発見があると思います。

(少し長い文章なので、あんまり長い文章は読みたくない!という人は項目「3.答えのない問いに対して」から読んでもいいかもしれません)

1.作品を巡って生じたこと

2017年のMMMの話をします。湊公園に展示をしていた作品(『気持ちのいい風/あなたのためにあけた穴』田中真帆)について市民から意見があり、展示場所を移動してほしいという連絡が市の公園緑地課から来ました。意見をした方は作品を観ていた中学生が「この作品エロい」と言っていたのを聞いて、卑猥な作品のため教育に悪影響があるからけしからんという内容を市役所の方から伝え聞きました。その時キュレーターの私とプロデューサーの中村泰之らと相談し、作家の田中さんや関係各所との調整を行い、公共の場であることと市から借りている場でもあるために、恵愛小林クリニックに移設を行いました。

街中における展示は作品そのものだけでなく展示場所や空間を含めて作品展示となるので、正直移設は非常に残念でした。
しかしただ作品を移設するのではなく、私たちの連絡先を明らかにした上で意見をいただいた方に連絡を取って対話をしようと試みました。しかし、ついに連絡を取りお会いすることは叶いませんでした。
その「意見」は市役所だけでなく、作家のプロフィールに書いていた卒業した大学にも複数回連絡をしており、様々な対応が必要となりました。私自身に意見を言われることはむしろ歓迎です。展示の責任者としてそういった対応をすることは当たり前ですし、どのような意見を持っていて、お互いの考えを理解しようとすることは重要だからです。その矢面に立つことがキュレーターの役割ですが、作家や作品を守れなかったことは今でも苦い想いになります。

私は「エロい」と言った中学生たちに会ってみたかったのです。彼らは作品を観て、彫刻の肌理や艶かしさを感じて、自分たちの言葉で表現したのだと思います。作品そのものが性的なもののみを意図していたわけではありませんが、彼らは自分たちの眼で「観て」、なにかを感じ取ったのだと思うからです。
対して意見をしていただいた方の話した内容を直接でないにしろ複数聞きましたが、「少年たちがこう言ったから卑猥である」「そんなものは芸術ではない」といった内容でした。おそらくその方は作品をしっかり「観て」いなかったのだと思います。もしくは見てすらいなかったのかもしれません。もちろん実際に対話できたとしても意見は変わらないかもしれなかったかもしれません。

自分の眼で実際に観ずに、自分の言葉でないものを押し通す—それによって誰かが傷つく、残念ながら現在では珍しくないのかもしれません。この内容はその後の大型芸術祭で起きたことにも共通しているかもしれません。
しかし、私はこのことを批難したいわけではありません。もちろん意見をくれた方を貶めたいという気持ちはありません。しっかり対話ができなかったこと、その環境にできなかったことに対しての悔しさが今でもあるのです。

2.対話から生まれるもの

作品を生み出した田中真帆さんの作品ステイトメントの一部をここに引用します。

“人と関係していくことについてずっと考えている。私たちは本来的にわかり合うことは出来ないのかもしれない。しかし、コミュニケーションの不可能性が生むのは断絶ではなく、相手をわかろうとすること、受け入れられ、受け入れること、離れること、寄り添うこと、その継続だ。人との関係の形は、そのようにして人々が対峙した痕跡のように思う。そして、粘土の形もまた、そういったやりとりの痕跡のもとで生まれる。(中略)湊公園は高台にあって海や町がよく見える。夏の暑い日でも風通しが良く、よく手入れされた古い家のような心地良さがある。時々犬の散歩にやってくる人がいるけど大抵は静かで、公園そのものが大らかに昼寝しているようだ。(一部抜粋) ”

この内容を読んでも分かる通り、求めているのは断絶ではなく対話でした。
私や当時の実行委員はご本人と直接対話することはできませんでしたが、この作品から断絶を生み出すのではなく、さらなる対話を生み出せないかと考えました。
その中で特に印象的なエピソードが2つありました。

作品の移設について考えていた時に、当時の状況を見ていた湊公園の清掃の方と話をすることができました。その時に「芝生の上にあれ(作品)があってもわからないよねえ、わたしは美術館には行かないけれど、ああいうのは白い台に乗ってあるものじゃない」と言っていたのです。
私はとても驚きました。彫刻における台座は現代の美学において非常に重要な論点だからです。台座の素材や大きさも作家の表現対象となるだけでなく、台座の有無も多くの作家や批評家が焦点としてきました。台座のない彫刻はアンソニー・カロの作品が有名ですが、批評家の中原佑介の言葉を借りると、
“彫刻の台座は彫刻の聖性と分ち難く結びついていました。台座を捨てるということは、彫刻がかつてもっていたような聖性を捨てることと同じになります”(中原佑介『中原佑介美術批評選集  第六巻』pp.181-182)
台座があることによって彫刻が特別、いわゆる美術館に保管されるような価値のあるものだと認識されているとすれば、台座に乗っていれば今回のことは防げたのでしょうか。おそらくその可能性はあったと思います。しかし、そうすると作品の意図は完全に失われてしまいます。「人との関係の形」は地面から切り離すと成立しないからです。
お話を聞かせてもらった清掃スタッフの方の何気ない一言で改めて作品の理解が深まったのです。

作品を通じて断絶だけではなく対話をするために、作品移設について那珂湊の方々に経緯説明をする機会を設けました。様々な意見が出て、作品について考える機会になりましたが、ある方が「卑猥というのであれば、その方は勝田駅前を歩けないね」と言いました。勝田駅前ロータリーには台座に乗った裸婦像があります。それも悪影響というのであれば外に出るのも難しくなるね、と。
その時には私も同意しましたし、作品から対話が生まれたことに嬉しさを感じていました。しかしその後に公共空間に裸婦像がこれほど設置されているのは日本くらいであることを知りました。(なぜ裸婦像なのか、この話は小田原のどか編著『彫刻1—この国の彫刻のはじまりへ/空白の時代、戦下の彫刻』を参照するといいです)
ひとつの作品を通じて今でも気づくことや、ようやく理解することも多くあります。その度に考えることで自分の糧になることもアートや地域と対話することの意義だと感じています。

3.答えのない問いに対して

日常の中は、正解のない問題に溢れていることを常に感じていると思います。むしろ答えが決まっているものの方が少ないのではないでしょうか。だからこそ答えが分かるクイズ番組が人気なのかもしれません。しかし答えがないからと言って素通りし続けることもできません。そういった問いに対峙するときに考え続けることはとても大事なことですが、自分の中にある知識や経験は実は大したことはありません。人ひとりの数十年の経験や知識は万能ではないので、問題に向かい合うことは大変かもしれません。しかし私たちはひとりで全ての問題を解決しないといけないわけでもありません。問いに向かい合うためには知らないことを調べればいいですし、みんなで議論すればいいのです。

そこで大事なのが「観る」ことです。しっかり眼前のものが何か、何でできているのか、なぜ作られたのか、何に関係しているのか、どんな背景があるのか—ただ視界に映るだけではなく、「観て」思考を巡らせることで得られる情報や想いが沢山あります。
アートを「観る」、つまり作品と対話することは様々な問題に向かい合うための重要なことが詰まっています。もちろん作品を見て綺麗だ、癒されるということも素晴らしいですが、「観て」考えることや、作品について誰かと対話することによって得るものは自分や周りを耕すことにつながるのです。
一見自分には関係がないような事柄、例えば映画や小説やアニメ・漫画から、得るだけではなく救われた経験がある人も多いと思います。自分ひとりでは経験し得なかったことも作品を通じて知ることもあるでしょう。

そんなにシリアスに考えるのは嫌だと思う人もいるかもしれません。無理矢理苦しいことに対峙する必要はもちろんありませんが、自分自身の輪郭を少しあやふやにしたり拡げたりするような楽しい体験でいいと思います。大事なのは自分自身で完結しないことです。地域で、那珂湊で活動することはその可能性に溢れています。

4.実行委員だからできること

MMMの実行委員は作家の企画から作品完成、展示までを間近で体験できます。以前私がアーティスト・イン・レジデンスに参加していたところを学生に体験してもらったことがありました。その中の感想で「作品を制作しているところを見たので、作品が人の手で作られているところがわかった」と言われたことがありました。
ほとんどの人は完成して展示された作品しか見ることがありません。展示されるまでにどのような考えや試行、様々な想いはドキュメンタリーでもなければ知ることはできません。
作家は比喩でなく生命を懸けて制作しています。その熱に触れることで人生が変わったMMM実行委員も何人もいます。私もそのひとりです。

MMM実行委員は作家の協力者だけではありません。最初の観衆、協働して制作する人にもなります。そして制作現場をともにすることで、来場者へ作品の想いを伝達することもできます。
MMM実行委員は最初の観衆として作家に作品の感想を伝えてください。それによって展示がより伝わりやすくなることもあります。
そして作家とたくさん話してください。次に作品のことや、自分が作品を「観て」考えたことを来場者と話してみてください。それは正解を伝えることではありません。作家の意図=正解ではなく、作家の意図や自分の考えを伝えることでさらなる対話が生じるかもしれません。対話を重ねることによって理解は深まります。これは対話型鑑賞と呼ばれるものですが、この手法も今後お伝えできればと思います。

5.おわりに

少し長くなりましたが、MMM実行委員のみなさんは活動を通じて様々なことに挑戦することができると思います。モチベーションを高く行動することはとても大事です。しかしただ行動するだけでなく、深く思考して作品のさらなる理解を求めてみてください。そのために「観る」ことが大事です。
MMMの会期の前などでも実行委員でミュージアムに鑑賞に行くこともいいででしょう。作家におすすめの展示を聞くというような交流もいいかもしれません。今からできることは多くあります。そのはじまりも「観る」ことからやってみてはどうでしょうか。

橋口静思
宝塚大学東京メディア芸術学部専任講師。
みなとメディアミュージアムチーフキュレーター(2014〜2018)

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